上司と部下はズレていて当たり前
簡単には伝わらない
部下に「何をどこまでやってもらうか」ということは上司の頭の中にあります。でもほとんどの場合その半分も部下には伝わりません。
伝え方が悪いとか、受け取る側に問題があるとかそういうことではなく、それくらい「伝える」ということは難しいということです。
でもなぜか僕たちは「伝えるのは難しい」という前提を忘れてしまう。だから話が通じない相手に必要以上にイライラしてしまうわけです。
例えば部下は、上司にどんなに仕事を丁寧に教えてもらったとしても、自分が理解できる範囲でしか仕事はできないんです。
上司からすれば「あんなに丁寧に教えてやったのに」という気持ちかもしれません。
かたや部下は「自分にできることはちゃんとやった」という認識。
このズレがないと思うからお互いイライラしてしまうんです。
僕自身も新入社員の時には上司にそう思われていたでしょうし、部下としては「ちゃんとやっている」と思っていました。
部下は「自分の分身」ではない
僕も部下を持つようになって思うのは、指示したことを部下が完璧にやってくれるということはないんだということです。
こういう書き方をすると「部下に期待していないのか」って言われそうですが、そうではないんです。
部下が自分の分身になってくれると思うのは幻想なんだってことです。
なぜなら部下には部下の歴史があり、感性とか価値観といったものすべてが僕とは違う。
その違う人間に、「これだけ細かく丁寧に教えれば絶対にできるだろう」と思ってしまうことそれ自体が、「人」というものに対する認識が甘かったなと思ったわけです。
部下はモノではない
特に今の時代は情報が前倒しで入ってくるので、「理想像」ばかりどんどんふくらんでしまう。
上司も部下も、お互いに「期待値」が高いわけです。
そしておもしろいこと、自分がいざ上司になると、部下に、その頃の自分では到底できなかったであろうことも当たり前のように要求してしまう。
どうしてこんなことが起こるのかといえば、お互いが「相手」を「人」として見ていないからです。
「上司」とか「部下」というくくり、それも「普通上司は」とか「部下だったらこうすべき」というメガネ越しにしか見ていない。
だから「あいつは能力が低い」という結論に達してしまう。
そんなことを考えたのは、僕自身がそうだと気がついたからです。
いつのまにか部下をモノや道具のように考えていたんじゃないかって。
表面的には労いの言葉をかけたり、評価をしている。
でも一方で、どこか機械的で「こうすればこうなる」というような理屈を部下に当てはめようとしている自分もいたな、と。
自分だけは違う?
こういうことって自分自身が認めるのは簡単なことではありません。
人は「自分だけは違う」と思いたいものですから、それを認めるのはちょっと心の奥の方がチクっと痛くなります^^;
でも人が変われる時って、結局は自分で気づいた時しかないんですよね。
どれだけたくさんの本を読んだりセミナーに通っても、自分の弱さとか不足に気がつかない、あるいは気がついていても認めて受け入れることができなければ、やっぱりその次の日も同じように過ごしてしまう。
人として関心をもつ
職場ではそれぞれ役割があります。
さまざまな肩書きがついていて、責任の大きさもみんな違います。
ただ、その「肩書きという着ぐるみ」を着ているのはやっぱり生身の人間なんです。
だからアットホームな職場にしましょう、なんてことではなくて、もっと深いところでの尊重というか、その人の存在自体を認める姿勢がないと、上司は上司として成立しないし、部下も育たないんじゃないかと思うんです。
中には成長を望まない部下もいます。
実はこれもつい忘れられがちな事実です。
今の給料のままでいいから少しでも早く帰りたいとか、これ以上のことはやる必要がない、なんて考えていたりする人もいるんです。
それに対して「仕事を覚えた方が楽しいだろう」と言ってみたり、「そんな生き方でいいのか?」なんて諭してみたところで、本人にこちらが望むような意思がなければ意味がないわけです。
だからといってそういう社員はいらない、ということにはなりません。もしかしたら歳を重ねていって結婚をして所帯を持った時に、「もっと稼がないといけない」と思って奮起するかもしれない。
休みの日にふらっと立ち寄った本屋で買った一冊の本がきっかけで、バリバリ仕事をやるようになる、ということだってあるかもしれない。
そういう若い子達の心の変化を待つということも必要だと思うようになりました。特に働き手が減る一方の今の時代はそう思います。